2012年5月23日水曜日

アメリカでの政治の戦いのなかにマナーがある

アメリカの二大政党について、その特徴や成り立ち、実際に政党活動を支える「キャプテン」などの活動家の姿、アメリカの政治のなかに占めている政党の意義、あるいは歴史上の傾向や最近の様子などについてふれてきた。詳しい歴史上の経緯にこだわるというよりは、できるだけ公式論を避け実際の様子を見ることに力をさいたつもりだが、時代の波にもまれながら変貌をくり返し、民意の反映という民主主義の基本の任務をにない続けている政党の生態が、少しでも明らかになったとすればさいわいである。

政党がその任務をはたそうとするなかで、一見して腐敗に相当すると思われることも多く行われていたし、義理と人情の人間的なつながりのなかでものごとが動いている部分もあった。その意味でアメリカの政治だけが特別なのではなく、具体的な細部については日本の様子などとも似かよっていたし、おそらくは世界中の政治が似たようなたてまえと人間的な欲望の葛藤の中にあると思われる。

ただ、日本やヨーロッパの政治の世界では、さまざまな立場や主張をかかえたたくさんの政党が並立するということが普通ではなかろうか。そしてたいていの場合には、政権も複数の政党が協力して担当するという連立政権が見られる。実質的に二つの政党しか存在できないというアメリカのありようは、やはり世界的に見ても特異な姿であろう。

その特異性は、ほかの政治の制度のもとでは見られない特徴をもたらす。たとえばボクシングの試合では相手を徹底的に打ちのめし、相手がふたたび立ち上がれないようならば勝ちだが、似たようなことは世界の権力闘争の場でおこなわれてきた。場合によってぱ血の粛清などという、人命が問題となるような政争も頻繁におこっている。

ところがアメリカの共和党と民主党の戦いでは、相手を徹底的なかたちで打ちのめしてしまうことは許されない。たとえ行政府をあずかる与党になったとしても、政治権力などを利用して野党となっている反対政党の力をつぶすことはタブーである。

なぜタブーかといえば、次回の選挙ではまた相手と戦うことが期待されているからである。野党の力を徹底的に弱めてしまったとすると、政権交代というアメリカの政治の姿の基本がなくなってしまう。そのためには相手にも力を温存させておかねばならない。したがってここで行われる「権力闘争」は、ある程度のマナーをわきまえた紳士的な戦いとなる。

アメリカでの政治の戦いのなかにマナーがあるのは、双方に基本的な了解事項が成立しているからでもある。共和党も民主党も互いに了解している国民的なコンセンサスというのは、おおよそ次のような事がらであろう。一つは合衆国憲法を保持するということについて、双方に異論がないということである。現在のところアメリカの憲法を変えようとか、あるいは廃止しようという意見は、共和党や民主党だけではなく社会に皆無といってよい。したがってすべての政治上の争いは、憲法の枠組みのなかで行われるという暗黙の了解がある。

もう一つの了解事項は、資本主義の制度にたいするおおまかな肯定であろう。制度にたいするいろいろな文句が出たり、実際に修正を加えることぱあっても、これを根底から否定しようとする者はこれまた皆無に等しい。そして最後にあげるべ支二番目の社会的なコンセンサスは、政府のあり方と権力の交代のしかたについてである。政党による「革命」や、大統領と合衆国議会との関係などについても、いろいろな問題点は指摘されながらも、これを完全にくつがえしてしまえという意見は見られない。

アメリカ以外の多党政治を持つところでは、そもそもこのようなコンセンサスが存在していない。そこで数ある政党のなかには、現存の制度や国家のあり方を肯定する政党もあるが、政治上の基本のルールに反対したり、国家の制度自体に疑問をさしはさむ政党もあり得る。たとえば国家の憲法自体を否定する政党などというのも考えられる。そして日本にはさすがにないが、政治上の立場のちがいゆえに暴力沙汰が生まれる国もある。

しかしアメリカ型の紳士的な「大政翼賛」に近い政治のシステムが良いことで、私たちもその特異な制度に見習わねばならないのか、ということについては疑問が残るところである。アメリカにはアメリカ特有の風土と「アメリカン・ライフスタイル」への国民的な肯定の気持ちがあるからこそ、現在のような政治のしくみができあがった。

風土の異なる日本では、むしろ多党並立型の政治のシステムがかえって健全なことなのかも知れない。それとも「ジャパニーズ・ライフスタイル」を保持するための二大政党制度が望ましいことなのだろうか。