2016年1月15日金曜日

アニミズムは「生き神」や「生き仏」を生み出しやすい

アニミズムは「生き神」や「生き仏」を生み出しやすいのである。というより、誰もが神や仏になれるのがアニミズムの特質なのである。戦死した軍人は皆「軍神」となって、なかには神社まで建ててもらった将軍も少なくないし、一般の人々も死後は「仏」となって奉られるのである。

まさにこの点で、日本の神や仏は西欧の唯一絶対の神とは著しく異なっている。しかし、差異を強調しすぎるのも誤りで、両者は同時に「奇跡を託される存在」という共通の属性も持っているのである。

元寇の際に吹いた大嵐を「神風」と呼んだのはその証拠であるし、今日も難病や困難な問題で苦しんでいる人たちが、神となり仏となった「ご先祖様」に手を合わせて奇跡を願う光景は日常的に見られるものである。

「奇跡を託される存在」という点では八百万の神々も唯一絶対の神も同じであって、これこそが人間の宗教心の原点なのである。

「生き神」や「生き仏」を生みやすいアニミズム文明は原理的に聖と俗の境界があいまいな社会構造を持つのに対し、唯一絶対の神の文明ではキリスト教のように聖と俗の境界がはっきりと分かれているか、逆にイスラム教のように聖と俗が一致している社会構造を持つ、という対比がある。

唯一絶対の神の文明は原理的にはイスラム教世界のように聖と俗の一致する社会構造を有するはずであるが、キリスト教はイエスが「カエサルのものはカエサルのもとへ、神のものは神のもとへ」と聖と俗を截然と分けたことが契機となって、聖と俗の二項対立の社会構造へと進化してきた。

それゆえ、西欧文明は聖書にあるイエスのさまざまな奇跡に見るように、聖の世界はオカルト神秘主義に満ちているにもかかわらず、俗の世界ではオカルト神秘主義にあまり惑わされずに、透徹したリアリズムやプラグマティズムの視点から思考する精神構造へと進化できたのではないかと私は考えている。

この点日本は逆で、聖と俗の境界があいまいであるがゆえに、その境界の中から簡単に「天皇現人神」が生まれ、また本来聖に属するはずの事柄が俗へと下りてきたり、逆に俗に属するはずの事柄が「聖化」されるという「相互移入」を起こしやすいのである。

大東亜戦争末期の「神州不滅」のかけ声が前者の典型であり、「不磨の大典」となった「大日本帝国憲法」は後者の典型である。