2015年6月12日金曜日

都市銀行のBIS自己資本比率の推移

大規模増資と株式含み益のT2項目への追加的算入による自己資本の急拡大は、銀行の信用供与額の大幅な拡大を可能とさせた。表は都銀についてのBIS規制関係の主要な計数を並べたものである。リスクーアセットの増加状況をみると、前年同期に比較しても、九年三月期には約四一兆円、九〇年三月期には実に六二兆円もの純増を示している。

BIS規制を応用した銀行のバブル期における与信能力の激増は、ひとたび株価が暴落を始めると、大逆転となることを余儀なくされた。実際、銀行の与信能力の急速な減退ぶりは、まさに目を被いたくなるばかりのすさまじさであった。そして、BIS規制のもつ強力な信用収縮メカニズムを通じて、株式市場の動向が金融システムの安定性や信用創造の問題に対し、いかに絶大な影響を及ぼすものになっているかを認識させるようになったのである。

九〇年初めからの株価急落は、金融機関の・含み益を急速に縮小させた。表をもう一度眺めるならば、株式含み益の減少がいかにすさまじいものであったかがわかる。都銀だけでも八九年三月期の約三九兆円から、九一年三月期の約二二兆円へと、わずか二年間でほぼ半減した。そして九二年三月期にはさらに半減し一〇兆円になった。株式含み益が二~三年でここまで減少すると、銀行にとっては自己資本のうちの補完的項目(T2)が急低下するのは当然である。これを反映して、BIS自己資本比率は大きく低下し、九〇年から九二年にかけて、最低要求水準である八%の達成すらも危うくなった。

主要な都市銀行のBIS自己資本比率の推移をみると、バーゼル合意が績ばれた直後の八九年三月期には、BIS自己資本比率は一〇%にも達していた。また当時は、増資や豊富な株式含み益を考慮に入れれば、たとえ信用供与を大幅に増加させ続けるとしても、八%基準の達成などはほとんど障害にはならないとの認識が一般的であった。だが現実は、こうした認識がいかに甘い前提に基づくものであったかを厳しく暴きだした。

九〇年九月期には中間決算とはいえ、株式含み益減少によるT2項目の急減を主因に、BIS自己資本比率は一気に七%台にまで低下した。これにより、わが国の銀行がBIS基準の最低ラインである八%を達成することは、当初の楽観的見解とは裏腹に、それほど容易なものではないとの悲観的認識に一気に変化した。もとはといえば、八%基準の達成を容易にするために、日本側が株式含み益の四五%をT2項目に算入することを強く主張したことが原因であった。