2015年4月13日月曜日

多彩性の特徴

政治家は誰もがこの「多彩性の中の統一性」を、文字どおり死守してきた。マハートマーカンディーはもちろんインドのこの一体性を一番よく信じていただけに、政治的にそれを守れなかったことで、自分白身大いに苦しんだ。しかも最終的にはヒンドゥー教徒の若者に暗殺された。記憶に新しいのは、1984年に起きた、インド連邦第5、8代首相インディラーガンディーの暗殺である。当時、シーク教徒の多いパンジャーブ地方ではインドからの独立の動きが高まり、シーク過激派の根拠地であったゴールデンニアンプルをインド政府は武力で制圧した。このことにシーク過激派が猛反発し、彼女は自分の護衛にあたっていたシーク教徒警官に殺されてしまったのだ。

インドの統一を守るため、シーク過激派に厳しく対処する一方で、インディラーガンディーはシーク教徒を排除しなかった。シーク教徒は戦が上手なので、軍隊や警察には多くのシーク教徒がいたし、インディラーガンディー自身の護衛もシーク教徒だった。シーク過激派の反発が強まる中、危険を感じた側近たちが「せめて自分の護衛からはシーク教徒を外すべきだ」と懇願するのを制して、彼女は「私がそれをしたら、インドが一つであることを証明できなくなる。悪いことをしている政治家と、暴力手段に訴えるテロリストだけが悪いのであって、シーク教徒が悪いのではないということを、私は証明しなければならない」と、断固としてシーク教徒の護衛を雇い続けた。

シーク教徒の護衛の動きがおかしいから、解雇が無理ならせめて休暇をとらせてくれ、と諜報機関が警告する厳戒態勢の中で行なわれた、インディラーガンディー最後の演説は有名だ。「私か死んだなら、私の血の1滴1滴は、『自由』にして『分断されない』わが祖国を養い強める糧となるでしょう」。私たちインド人は、さまざまな違いを抱えながら、それでも一つの国家であると信じることで成り立っている国である。それを守り抜くために自分の命が使われるのならば惜しくないという、覚悟の表明だったのだ。すべてが彼女の言葉どおりになった。翌朝家を出た彼女は、家からオフィスまでのほんの10歩を歩く間に、2人のシーク教徒の護衛に朝の「ナマステー」の挨拶の返事として、真正面から30発以上のマシンガンを撃ち込まれた。至近距離からだったこともあり、ほとんど胴体が残らないくらいの凄まじさだったと言う。