2015年12月12日土曜日

中断された干拓工事

建設省の陰に隠れがちだが、農水省も公共事業予算の二割を握り、省庁のなかでは二番目に大きな実施官庁である。同省も税金の使い方にムダがあると批判されて久しい。そうした批判が的を射ていることを改めて印象づけたのは、一九九六年に再開問題が浮上した中海干拓事業である。

これは、島根県と鳥取県にまたがる中海の五ヵ所を干拓して合計二千五百四十一ヘクタールの水田を中心とした農地をつくるとともに、日本海につながる中海に防潮水門を設けて締め切り、中海とそれに連なる島根県の宍道湖を淡水化して農業用水を確保するという農水省の直轄工事である。

工事は一九六三年に始まったが、一九八八年に中断に追い込まれた。自民党政府は一九七〇年からコメ余りに対処するため減反政策を始めた。巨費を投じて、なぜいまさら水田なのかという疑問が起きてきた。中海と宍道湖は海水と淡水がまじる汽水湖で、野鳥や魚類の宝庫であり、特産のヤマトシジミでも知られる。両湖を淡水化すれば、自然の宝庫は壊滅的な打撃をうける。河口堰で締め切られた茨城県の霞ヶ浦が緑のアオコで覆われたように、日本でも有数の美しい景観を誇る湖が失われる。島根県からはしまった自然保護運動の輪は全国に広がり、工事に反対する署名は三十二万を超えた。

運動は成功し、水門などは完成していたが淡水化は見送られ、干拓地も最大の本庄工区二千六百八十九ヘクタール)をのぞいて完工していたが、浚渫船やブルドーザーは引き揚げた。本庄工区も、周囲に堤防の仕切りがほぼ完成し、あとは水を抜けば陸地にできそうな状態になっている。ぎりぎりのところで、ストップがかけられたのである。

2015年11月13日金曜日

山下公園地区の整備

その頃、アーバンデザインーチームは、この山下公園前の海岸通り地区で行なわれる、さまざまの開発行為や建築行為について、どのような方針でのぞむかの骨子をまとめた。考え方は現実性もあり、明快なものでなければならない。そこで、港の眺望がすばらしいこの地区を、特定個人の独占を避けて、できるだけ不特定の者でも出入りできる公共的な性格をもったものにすること。個人に占有されるマンションはやめる。海岸通りの歩道も狭いので、これに面する建築物は、前面敷地から三メートルを後退させ、歩道と同一仕上げにして、歩道幅員を確保すること。

歩行者と車の動線を極力分離し、山下公園側の歩道は車の出入りによって分断されないように、駐車場や車の乗りつけは、裏側や側面で行なう。歩行者道に添って、できるだけ広場を確保させ、この広場を、他の建物の広場とも互いに呼応させる。このような原則を立てた。指導内容は、ゾーンごとに異なるが、表のような項目である。さきほど述べてきたような、この地区についてのさまざまな手段は、原則をたてる以前から行なってきたが、ここへきて、もうすこし具体的な方針を明確にうちだした。

神奈川県が、この地区に三〇〇〇人近い大ホールを含む県民ホールを建設したいという申入れがあったからである。たしかにここは整備さえすれば横浜らしさ、ミナトらしさからみて第一等地であった。それは、さきほどの市の所有地と同じブロックで、その大部分は県有地である。そこで市の土地も買収し、一ブロックまとめて建設をしたいという申入れであった。市としても、独自の単独利用案を考えてはいたが、この山下公園地区の整備のために、県に協力することにした。

県知事から市長への申入れがあったさい、「土地売却には協力するが、この地区を全体として横浜らしい個性ある地域として整備したいので、市のアーバンデザインなどの指導方針に従ってほしい」という申入れを行なった。そこでさきほどのような原則を、県側に提示した。同じ頃、県民ホールの隣りのブロご所が中心になって、横浜産業貿易センタービルを建設する計画が進められていた。

このビルにも同じ申入れを行ない、さらに、ほぼ同時に建つこの二つのビルの、それぞれ向きあった角地に、広場をとることを提案した。土一升金一升の高価な土地で、前面を三メートルも歩道敷として削られたうえに、なお前面に合わせて三○○○平方メートルの広い広場をとることなどは、できないことだとの抵抗もあった。これも環境設計制度という、まえから手を打っていた施策がきいたことと、ねばり強い説得とで解決していった。

2015年10月13日火曜日

日本企業への三下り半

「火だるまになってもやりとげる」日本版金融ビッグバンの構想が、橋本首相(当時)のかけ声よろしく打ち出された頃は、英国の「金融ビッグバン・ウィンブルドン現象」の連想から、日本の金融機関も相次いで外資の手中に陥るのかという議論が横行したものである。

その後は足下の金融危機と不況の深刻化で、メディアも外資の攻勢に気をもむ余裕さえ失っていた感がある。そして、気がつけば旧山一燈券の三十三の店舗と約二千名の従業員をメリルリンチが、消費者金融のレイク、東邦生命、日本リースをGEキャピタルが手中に収めたように、早くも破綻や経営危機から外資の軍門に降るケースが現実のものとなってきた。

東京三菱の役員をしている友人が、東大からの志願者が激減したので私立大の内定を増やしたと嘆いていた。すこしは官僚体質が減るのでむしろ喜ばしいのでは、と内心思ったが、友人は本当に心配そうだった。東大生の外資系希望者が九七年には四%未満だったのに、九八年は二六%を超える伸びを示し、一橋その他でも似たような状況だと新聞も報じていた(朝日新聞一九九八年六月六日)。ある東大生は「定年までずっと守ってくれるという日本企業への信頼感が崩れた。本格的な競争社会で生き残る自信もある」という。

時代は急速に変わっている。外資系に入社しようとする若者の意気込みが、寄らば大樹の陰を望む大方の有名大学の学生とはまるで違うという話を、一橋大学の中谷巌教授から聞いたことがある。ある外資系金融機関に就職することになったゼミ生は、内定するや、ゼミでの報告を英語でやらせてほしいと希望し、見る見るうちにプレゼンテーション技術も英語力も向上したし、英語のファイナンス理論の教科書を熱心に読むようになったという。

それは日本の一流会社に就職した他の学生が、一安心して海外旅行などで遊び回るのと好対照であり、その理由を探ると、彼には初任給七〇〇万円と他の学生の倍以上の年俸が三年間保証されているが、その後は業績次第で一五〇〇万円に昇給するか、後方事務部門に配置されて賃下げとなるかが決まる、という事情が明らかになったそうだ。

2015年9月12日土曜日

破傷風の予防接種

破傷風の予防接種は、人問の頭脳がトキソイドを考え出したことによって可能となった、純粋な人工的免疫現象ということになる。また予防接種を受けたことのないヒトが破傷風にかかった場合、時にはトキソイドを別の部位に注射することがある。これは患者が、抗体を自分で作ることを期待するものではない。トキソイドを注射しても、実際に抗体が作られ出すのはかなりあとのことであるからとても間に合わない。

これは毒素とトキソイドの形が似ているために、トキソイドを先回りさせることによって、毒素が神経細胞に取り付くことを邪魔させるためである。この場合、中和抗体とトキソイドを混合して注射すると同士討ちになってしまうから、両者は別の部位に注射する。ボツリヌス中毒も、理論的には予防接種で予防できる。しかし実際には、このような予防接種は行なわれない。なぜなら、一般のヒトがボツリヌス中毒にかかる確率が著しく低いからである。

創傷部位における致死的病変は感染症というより、結果的にその動物が死んだ後、改めて栄養源にするための手段と考えられる。また細菌学的には異なる菌種であるが、炭疸菌も破傷風菌やボツリヌス菌のような、いわば狩人のような細菌である。この細菌は通常、芽胞型として土壌中に存在する。主に草食動物が草を食べる際、ロの周りに生じた小さな傷口から侵入して全身で増殖し、動物を殺す。

殺した後、おそらくこの屍体を利用して、改めて本格的に増殖するところも同じである。そして栄養を消費し尽くすと、芽胞になって土壌中に潜在する。炭疸菌の芽胞によって汚染された土壌は、長期間危険とされている。なぜならこの菌の芽胞が、乾燥などの環境の悪条件に耐える力が非常に強いからである。このように芽胞は、環境条件が悪化した場合、通常の代謝活動をいっさい停止して乾燥などに抵抗する。前述の破傷風菌の仲間と炭疸菌が、ともに芽胞型になる能力をもっているのは偶然ではない。

彼らの生育環境である土壌は自然条件に左右され、細菌の生存や増殖にとって著しく不安定だからである。腐生菌と反対に寄生菌の場合には、宿主という環境は、この宿主が生存している限り、条件の変化は少ない。このことからも、寄生菌にとって宿主になる生物を殺すことは自滅行為であると考えられる。

2015年8月18日火曜日

反共的なイデオロギーをもつエリート

蒋介石と一緒に台湾に移り住んだのは、蒋に強い忠誠心を抱く、軍人を中心とした国民党エリートであった。反共的なイデオロギーをもつこのエリートは、台湾において党はもちろんのこと、軍部や政府を支配する圧倒的な権力を、その統治の初期的時点からもっていたのである。大陸中国からの脅威は恒常的であり、緊迫したものであった。この脅威は、国民党エリートの団結をいちだんと固いものにし、また国民党による原住「内省人」の統制を正当化する根拠ともなった。国民党による台湾支配の中枢にあったのは、軍部と特務機関であった。台湾住民の、外来のこの国民党に対する反感は複雑なものであったとはいえ、その反感を具体的な行動であらわすには、国民党の権力はあまりに強く、台湾住民の力はあまりに弱かった。

台湾を支配した国民党エリートは、かつて大陸時代のそれとは異なった行動様式をとることを余儀なくされた。大陸における国民党からの民心離反が、共産党との内戦に敗れた原因であることを、国民党エリートはようやく自覚するようになっていた。みずからの生存の頼みの綱であったアメリカは、大陸での国民党の敗北の原因がその腐敗と政治的無能にあったとして、国民党の台湾移転ののちも、なお国民党支持に少なからぬ懸念をみせていたのである。国民党にとってはまことにさいわいなことに、朝鮮戦争の勃発が反共勢力である国民党への支持をアメリカに余儀なくさせた。

2015年7月14日火曜日

基礎年金による再編成

年金の算定は、この年代がもっとも複雑だ。これより若い新制度全面適用の年代の人々とともに、その年金加入期間は将来、かなり伸びると予想された。そのため、たとえば四〇年加入が普通の状況になっても、この単価、乗率の引き下げがきいて、年金額の水準は改正当時の水準にとどまると考えられたのである。したがってすでに受給している人の年金はそのままに据え置き、受給の近い高年者の分の切り下げはきびしいものとしない、などの考慮がされていた。しかし改正案がわかりにくい等のため、国民の開からこうした改正案への意見はほとんどきかれなかった。

国民年金は従来、自営業者等の年金であったがヽこれを「基礎年金」としヽ二〇歳から五九歳までの全国民が加入することになった。厚生年余、共済年金など被用者年金の加入者も国民年金に加入する。この点が非常にわかりにくいが、基礎年金を入れることで、制度の形を次のように再編成したものである。厚生年金は、先に述べたように報酬比例部分と定額部分の二つからなる。この定額部分に加給年金を加えたものを二分して、大と妻それぞれの基礎年金とした。したがって、サラリーマンの年金は、基礎年金という一階に、厚生年金の報酬比例部分がのる二階建てとなり、妻の分は基礎年金だけである。共済年金も、厚生年金と同様仁再編成された。

基礎年金を導入したメリットは何か。まず基礎年金は全国民共通の年金となり、負担も給付も同じ条件で扱われる。基礎年金部分については、各制度間で一本化される。さらに基礎年金の導入により、これまで世帯単位と個人単位の年金が共存していた日本の年金制度が、「個人単位」に衣更えする。夫の受ける厚生年余と基礎年金をあわせて一人分とし、妻の基礎年金も一人分である。

基礎年金の財源は各年金制度が加入者数に応じて持ち寄るので、逼迫した国民年金の財政は息をつくことができた。こうして基礎年金は、一種の合理化の対策でもあった。基礎年金の効巣がしきりにPRされたが、国民の目には、清新な価値ある年金とは映らなかったようだ。人々は四〇年加入で月五万円という年金額二九八四年度価格)に失望したのである。国会審議でもこの点に質問が集中した。

また、社会党と公明党が、基礎年金は国民の最低生活を保障するもので、生活保護基準を上まわるものでなければならないと主張したのに対して、当時年金局長だった吉原健二氏は、その編著書『新年金法』につぎのように書いている。「昭和五九二九八四」年度現在、六五歳単身男子の場合二級地(県庁所在地等地方中核都市)で〔生活保護費は〕雑費分も含めて五万三三六九円、夫六八歳、妻六五歳の夫婦の場合はあわせて八万三七四〇円であり、老人一人当たり、おおむね五万円前後の水準である。【中略】基礎年金の水準が、生活保護の水準と比べて必ずしも低いとはいえない。

2015年6月12日金曜日

都市銀行のBIS自己資本比率の推移

大規模増資と株式含み益のT2項目への追加的算入による自己資本の急拡大は、銀行の信用供与額の大幅な拡大を可能とさせた。表は都銀についてのBIS規制関係の主要な計数を並べたものである。リスクーアセットの増加状況をみると、前年同期に比較しても、九年三月期には約四一兆円、九〇年三月期には実に六二兆円もの純増を示している。

BIS規制を応用した銀行のバブル期における与信能力の激増は、ひとたび株価が暴落を始めると、大逆転となることを余儀なくされた。実際、銀行の与信能力の急速な減退ぶりは、まさに目を被いたくなるばかりのすさまじさであった。そして、BIS規制のもつ強力な信用収縮メカニズムを通じて、株式市場の動向が金融システムの安定性や信用創造の問題に対し、いかに絶大な影響を及ぼすものになっているかを認識させるようになったのである。

九〇年初めからの株価急落は、金融機関の・含み益を急速に縮小させた。表をもう一度眺めるならば、株式含み益の減少がいかにすさまじいものであったかがわかる。都銀だけでも八九年三月期の約三九兆円から、九一年三月期の約二二兆円へと、わずか二年間でほぼ半減した。そして九二年三月期にはさらに半減し一〇兆円になった。株式含み益が二~三年でここまで減少すると、銀行にとっては自己資本のうちの補完的項目(T2)が急低下するのは当然である。これを反映して、BIS自己資本比率は大きく低下し、九〇年から九二年にかけて、最低要求水準である八%の達成すらも危うくなった。

主要な都市銀行のBIS自己資本比率の推移をみると、バーゼル合意が績ばれた直後の八九年三月期には、BIS自己資本比率は一〇%にも達していた。また当時は、増資や豊富な株式含み益を考慮に入れれば、たとえ信用供与を大幅に増加させ続けるとしても、八%基準の達成などはほとんど障害にはならないとの認識が一般的であった。だが現実は、こうした認識がいかに甘い前提に基づくものであったかを厳しく暴きだした。

九〇年九月期には中間決算とはいえ、株式含み益減少によるT2項目の急減を主因に、BIS自己資本比率は一気に七%台にまで低下した。これにより、わが国の銀行がBIS基準の最低ラインである八%を達成することは、当初の楽観的見解とは裏腹に、それほど容易なものではないとの悲観的認識に一気に変化した。もとはといえば、八%基準の達成を容易にするために、日本側が株式含み益の四五%をT2項目に算入することを強く主張したことが原因であった。

2015年5月18日月曜日

文章力でビジネスマンの資質は決まる

交渉力・提案力は、裏を返せば論理的な理解力と表現力である。論理の塊であるコンピュータの世界に身を置くSEは心がけしだいで身につけることができるはずだ。まずは人を好きになることだろう。相手に理解してもらおうという真摯な気持ちさえあれば、もともと技術的背景はあるのだから、説得は容易なはずである。

次に文章力である。これも苦手なSEが多い。プログラムを組ませたら一流の腕でも、企画書や提案書を書かせたらどうしようもないヶIスがほとんどである。誤字脱字は論外、文法ミス、文章の論理的構成力不足などあげたらきりがない。わたしの経験でも、ビジネスレターひとつ満足に書けないSEが大勢存在した。過去はそれで通用したかもしれないが、これからはそうはいかない。

これも先ほどの交渉力・提案力と同じことが言える。昔のSEは、企業の前線部門とは分離され、完全に後方支援のような存在だったから、文章力は要求されなかった。確かな技術で品質のよいモノを作ってさえいればそれでよかったのだ。だが、いまや前線と後方支援の垣根は取り払われ、SEも最前線に出ていかなければならない時代だ。そうなると、当然文章力が問われるようになる。

ビジネスマンはある意味、言葉で勝負していると言ってもよい。□で話す百葉と文章にする言葉の二つである。この二つを有効活用できるビジネスマンが優秀と見なされる。話し言葉は、交渉と提案(プレゼンテーション)能力に活かされる。文章の言葉は、企画書、社内報告書、顧客とのやりとりで活かされる。逆に言えば、口下手で文章が書けないビジネスマンにとっては生き抜くのがむずかしい時代なのである。

SEは、まさにそんなビジネスマンの代表格たった。だが、それを改めなければ「勝ち組SE」には入れない。これからのSEは、徹底的に文章力を鍛えてほしい。具体的にどうやったらよいかといえば、いちばん簡単なのはほかの優れた文章をまねることである。職場を見渡せば、上司や先輩に文章の達者な人が必ずいるはずだ。その人の文章を徹底的にまねるのである。これはわたしの経験から話している。文章は教わるものではない、盗むものだからだ。

2015年4月13日月曜日

多彩性の特徴

政治家は誰もがこの「多彩性の中の統一性」を、文字どおり死守してきた。マハートマーカンディーはもちろんインドのこの一体性を一番よく信じていただけに、政治的にそれを守れなかったことで、自分白身大いに苦しんだ。しかも最終的にはヒンドゥー教徒の若者に暗殺された。記憶に新しいのは、1984年に起きた、インド連邦第5、8代首相インディラーガンディーの暗殺である。当時、シーク教徒の多いパンジャーブ地方ではインドからの独立の動きが高まり、シーク過激派の根拠地であったゴールデンニアンプルをインド政府は武力で制圧した。このことにシーク過激派が猛反発し、彼女は自分の護衛にあたっていたシーク教徒警官に殺されてしまったのだ。

インドの統一を守るため、シーク過激派に厳しく対処する一方で、インディラーガンディーはシーク教徒を排除しなかった。シーク教徒は戦が上手なので、軍隊や警察には多くのシーク教徒がいたし、インディラーガンディー自身の護衛もシーク教徒だった。シーク過激派の反発が強まる中、危険を感じた側近たちが「せめて自分の護衛からはシーク教徒を外すべきだ」と懇願するのを制して、彼女は「私がそれをしたら、インドが一つであることを証明できなくなる。悪いことをしている政治家と、暴力手段に訴えるテロリストだけが悪いのであって、シーク教徒が悪いのではないということを、私は証明しなければならない」と、断固としてシーク教徒の護衛を雇い続けた。

シーク教徒の護衛の動きがおかしいから、解雇が無理ならせめて休暇をとらせてくれ、と諜報機関が警告する厳戒態勢の中で行なわれた、インディラーガンディー最後の演説は有名だ。「私か死んだなら、私の血の1滴1滴は、『自由』にして『分断されない』わが祖国を養い強める糧となるでしょう」。私たちインド人は、さまざまな違いを抱えながら、それでも一つの国家であると信じることで成り立っている国である。それを守り抜くために自分の命が使われるのならば惜しくないという、覚悟の表明だったのだ。すべてが彼女の言葉どおりになった。翌朝家を出た彼女は、家からオフィスまでのほんの10歩を歩く間に、2人のシーク教徒の護衛に朝の「ナマステー」の挨拶の返事として、真正面から30発以上のマシンガンを撃ち込まれた。至近距離からだったこともあり、ほとんど胴体が残らないくらいの凄まじさだったと言う。

2015年3月13日金曜日

ジフテリア毒素もジフテリア菌の増殖を助ける

ジフテリア毒素もジフテリア菌の増殖を助けるのではないかと考えてみると、粘膜に潰瘍を形成して、血液の中の栄養を感染部位に呼び寄せることが毒素の役目であるということになる。ファージの根源的本体は、ファージ粒子よりもプロファージのほうではないか。また、破傷風毒素プラスミドやRプラスミドが保有している毒素遺伝子や耐性遺伝子の意味も、同じように考えられるのではないか。それと同時に、プロファージやプラスミドにも主体性があるのではないか、ということなどである。

普通、「なぜ」とか「どうして」という問いかけは、研究の場では意味のあるものとは受け止められていないように思える。同様に意味というものについても、研究の場では考えることがむしろ疎んじられているのではないだろうか。おそらく、このような問いを投げかけたり意味を考えることは、直接に何かの発見につながらないからだろう。

説明は事実を否定するものではない。むしろ説明は事実の上に立脚するものであり、結果として断片的な事実を総合することでもある。したがって説明は不必要なものではなく、求めることが誤りなのでもない。それでは、なぜこのように説明が疎んぜられるのであろうか。その理由として、ある対象が分析され尽くしたとしても、それをもう一度再構成することはそれほど簡単なことではないということが挙げられるように思う。

2015年2月13日金曜日

政府の検討結果

日本政府やGATTなど各種の報告書からも明らかであるが、少なくとも関税に関しては、日本は世界中でも低い水準にある。関税に関しては既に国内市場の開放は終かっているといって差し支えない。しかし、政府や業界による規制や非関税障壁については、いくつか考えなくてはならない点がある。特に規制の厳しい市場に対しては、外国からの直接投資や輸入品の流通チャンネルなどにいくつか問題点がある。

そして、外国人の目ばかりでなく、私達日本の消費者の目からみても、規制緩和の必要が実感できる。経団連も、日本の国でビジネスを発展させていく上で各種の規制が邪魔になりつつあることを、いろいろな機会で指摘するようにかっている。元々、政・官・財のトライアングルの中で固有の利益を得てきた財界の中でも、規制を続けている産業と規制が邪魔になってきた産業の問で足並みが乱れてきたのである。そして経団連の一部でも、規制緩和はコストを下げる効果を持つということが公然といわれだしたのである。

元来、規制とは一種の独占市場を作ることである。免許制を採用すれば、明らかに参入の自由に抵触することになる。各種の規制を課すことによって、価格や品質以外の部分で企業が競争をすることとなり、「経済学的世界観」と相入れないところとなる。規制緩和の波を持続させるためには、国内市場における価格競争を供給者と流通部門において進めていく必要がある。

一九九四年に経済企画庁に設置された内外価格差に関する研究会において、生産性が小売価格を決定する重要な要因であるといっている。そして、各国の生産性の格差は(1)経済規模、(2)市場開放の程度、(3)規制緩和の程度、(4)商慣習、(5)要素賦存量(労働、土地、資源)、(6)社会的・文化的環境によると述べている。さらにこの研究報告では、価格差を縮めるためにいくつかの提案を行っている。それらは(1)サービス部門の生屋性の向上、(2)輸入を促進させる、(3)参入障壁の除去と規制された産業の規制緩和、(4)公共料金を中心にした規制緩和、(5)土地の効率的な活用、(6)商慣習の変更、(7)流通部門のコスト削減、(8)消費者に対する情報開示などである。

2015年1月16日金曜日

官邸の国会介入

ならば定数削減法案は、そんなに大事な法案なのか? そもそもリストラをうんぬんするくらいなら、二十人の定数削減でいくら金が節約できるのか、最初に計算してみる必要があろう。元朝日新聞編集委員で、政界事情に明るい石川真澄・新潟国際情報大学教授によると、国会議員一人当たりの直接経費は、一般に年間約七千万円といわれている。二十人なら、十四億円だ。二〇〇〇年度一般会計予算案の十万分の一・六にしかならない。ごくちっぽけな金額である。リストラの効果は知れている。同教授は、こう言っている。

「共産党が受け取りを拒否している政党助成金でも、二十八億円を超えます。そのお金は実質的に他の政党が山分けしている。全額を国庫に入れるだけでも、定数削減の倍の効果がある」(『週刊朝日』二〇〇〇年二月十八日号)

二十人の定数削減が、金銭的にたいしたリストラにならないことは、小渕首相も青木官房長官も、百も承知のうえだった。この二人がいちばん恐れたのは、法案の「冒頭処理」の約束を反故にしたら、自由党が「約束違反だ」として連立政権を離脱、小渕内閣が崩壊することだった。自由党を無理矢理連立政権に引き留めるためには、どうしても通常国会開会直後に法案を一気にあげるしか選択肢はなかったのだ。

こうして始まった定数削減法案の採決をめぐる与野党の攻防は、当時の新聞報道を総合すると、ほぼ次のような切羽つまっだものであった。最初の山場は、一月二十六日にきた。与党側は野党の反対を押し切って、まず衆院倫理・公職選挙法特別委員会で、法案の趣旨説明に続いて審議入りを強行。与野党間の調整に乗り出そうとした伊藤宗一郎衆院議長の「裁定」を無視して、与党だけの形式的な審議ののちいきなり採決を行った。

第二の山場となった二十七日は、官邸が前面に立って、正面から強行突破を図った。青木官房長官は国会に乗り込み、伊藤議長を電話に呼び出して、本会議開会のベルを押すよう強要。森幹事長に「議長のところへ行って勝負すべきだ」と迫った。青木長官に尻を叩かれて、議長室に駆け込んだ森幹事長は、「議長が本会議開会のベルを押さなければ、小沢自由党党首はきょうにも連立離脱を表明、自白公の枠組みが崩れる」と、泣きついた。

法案が二十七日、衆院本会議で与党三党によって単独強行採決され、参院に送付されると、官邸による議会介入は、一段とエスカレートした。翌二十八日、青木官房長官は斎藤十朗参院議長に電話をかけ、「冒頭処理は二月二日までのことだ」と猛烈な圧力をかけ、参院本会議を二日に開会させた。国会法を悪用して、地方行政・警察委員会の採決を省略したのだ。そして、本会議に中間報告を求める動議を提出して、突然強硬採決を図った。

同委員会の和田洋子委員長(民主党)は中間報告の中で、「このような行為は憲政史上かつてなく、参議院にとって大きな悪例として、汚点を残す以外のなにものでもない」と嘆いたが、後の祭りであった。こうして、定数削減法案は青木官房長官の思惑通り、二月二日の参院本会議で、オール野党欠席のまま可決、成立を見た。

連立政権維持という党利党略のため、国会法は破る。行政府が公然と立法府へ圧力をかけて、三権分立の原則を平然と犯す。これ以上露骨な官邸による議会介入はあるまい。定数削減法案の「冒頭処理」を強行した小渕連立内閣と自自公三党の暴挙は、まさに議会制民主主義の破壊そのものであった。