2013年11月6日水曜日

果敢な問いかけ

仏教の教え・理念に立脚したGNHという概念が、ブータンという仏教国レベルでいかに生きているか、機能しているかを適切に説明した言葉である。わたしが二〇〇四年七月に第四代国王に面謁した時、話題がGNHに及んだが、その時国王は「わたしが提唱したことになっているこの標語が、いろいろな方面から注目されはじめたのは嬉しいが、独り歩きしている感じもする」と述べられた。それは、マルクス主義の提唱者とされるカールーマルクス(一八一八-八三)が、自分の意見・主張が必ずしも正しく理解されずに、マルクス主義として世間に広まっていくことに対して、「わたしはマルクス主義者ではない」と語ったとされることに一脈通じるものがある。国王の述べられたことは、おおむね次の通りである。

国として、経済基盤は必須であり、ブータンも当然経済発展は心がけている。しかし仏教国としては、経済発展が究極目的でないことは、経済基盤が必須であることと同様、自明のことである。そこで仏教国の究極目的として掲げたもの、それが「国民総幸福」である。しかし今考えると、「幸福」というのは非常に主観的なもので、個人差がある。だからそれは、国の方針とはなりえない。私か意図したことは、むしろ「充足」である。それは、ある目的に向かって努力する時、そしてそれが達成された時に、誰もが感じることである。この充足感を持てることが、人間にとってもっとも大切なことである。私か目標としていることは、ブータン国民の一人一人が、ブータン人として生きることを誇りに思い、自分の人生に充足感を持つことである。

仏教国ブータンの国家元首としての、確たる「国民総充足」論である。門戸開放、そして計画経済の開始から半世紀ほどが経ち、その間のあまりの急速な近代化に、自分か押し流されそうになってしまったブータン。第四代澗王は、国民総生産さえ上がれば国は繁栄し国民は幸せになれる、と盲目的といっていいほどに世界中が躍起になっているGNPには、さしたる重要性を認めていない。GNPは、思っていたような全能の特効薬ではないと幻滅した、他の国のにがい経験を他山の石としたブータン人の直感的知恵であろう。いずれにせよ国王は、近代化をペースダウンし、ブータンの伝統文化と自然を保ちつつ、ブータンのアイデンティティを確立することを優先した。

これは、発展途上国の趨勢ではけっしてないどころか、時代に逆行した無謀な試みかもしれない。しかし、あまりの急激な近代化により自分の自分たる立脚点を見失い、決して幸福にはなっていない多くの国の先例を前に、同じ過ちは犯すまいという、果敢な政治決断であることは確かである。イギリスのレイチェスター大学は、GNH「国民総幸福」という観点から二〇〇六年に世界で最初の「世界幸福地図」を発表した。この社会・経済・心理学的調査は、一〇〇以上の研究に基づき、八万人以上に質問して人生の充足度を計ったものである。この地図によれば、一位がデンマーク、二位がスイス、三位がオーストリアとヨーロッパの先進国が並んだ後、ブータンが八位に入り、アジアで最も幸せな国にランキングされている(ブータン政府による二〇〇五年五月の人口調査の質問項目に、「あなたは今、幸せですか」という項目があったが、それに対する返事は、「非常に幸せ」が四五パーセント、「幸せ」が五二パーセント、「あまり幸せでない」が三パーセントであった。ちなみに日本は全一七八力国中ちょうど中はどの九〇位である。

「国民総幸福」であれ「国民総充足」であれ、これはけっして形而上学的な哲学でも、経済理論でもない。それは、日常生活を営む上での、平易な、それでいて深い叡智の裏づけのある心得である。フランス文学者の渡辺一夫(一九〇一-七五)は、ヒューマニズム(フランス語ではユマニスム、ドイツ語ではフマニスムス。ルネサンス期に生まれた言葉で、humanior「もっと人間らしい」に由来する)という言葉を、「どこの国でも、人間の名に値する人々、心ある人々ならば、当然心得ているはずのごく平凡な人間らしい心がまえ」と定義している(『私のヒューマニズム』講談社現代新書6、一九六四年)が、この意味でわたしは、GNHは「国民総幸福という名のヒューマニズム」であると思う。