2013年3月30日土曜日

カメラとの出会い

リストラで明日の身も知れない時代に何で、といぶかるむきもあるでしょうが、松屋や他の中古市の売り上げの数字は、ここ数年、ほとんど変わっていないといいます。フランス人ダゲールによって銀板写真が発明されたのが、一八三九年。ダゲレオタイプと呼ばれたこのカメラは、F17の単玉レンズを使って八切判(16・5×21・6センチ)の銀板に写す四角い箱でした。露出は懐中時計とにらめっこ。人物写真の平均撮影時間は三十秒だったといいます。

いまから約百年前、パリの庶民の姿を驚くほど微細にカメラに納めつづけた写真家がいました。ユジェーヌーアジェ(一八五六?~一九二七)です。彼のカメラは、一八×二四センチのガラス原板を使った、ダゲレオタイプより一回り大きい組立てカメラでした。アジェはこのカメラを担いでI万枚におよぶ陰画を残しましたが、作品の真価が認められたのは彼の死後のことでした。カメラの重みのため、晩年にはすっかり腰が曲がっていたといいます。カメラが小型化されたのは一九二〇年代半ばになってからで、のちに小型カメラの代表的存在になったライカが初めて発売されたのが一九二五年(大正十四年)。発売当時の日本語版パンフレットには、次のようにあります(中川一夫「ライカの歴史」写真工業別冊/一九七九年)。

当時、ドイツは、第一次大戦以来の大不況に苦しんでいましたが、ライツ光学会社は何とか失業者を出すまいと、社運を賭けて機械技術部長オスカー・ハルナックが開発した小型カメラの発売に踏み切ったといいます。名称はライツ社のカメラということで、ライカと名づけられました。いまでこそ当たり前のように見える説明文ですが、当時は大変な驚きを与えた文章であったに違いありません。

わたしがカメラに興味を持った最初は、当時、高校生になったばかりの兄の友人が持っていたベスト判のスプリングカメラでした。開襟シャツの胸ポケットから取り出して見せてくれた白いハンカチに包まれたカメラの名はベビーパール。まるできれいな黒い目をした小鳥が、白い巣の中にいるようでした。現在も銀座などの中古カメラ専門店のウィンドーの中で見かけますが、ずっと欲しいと思っていながら、まだ手に入れてはいません。東京の英国大使館の近くにある日本カメラ博物館のガラスケースにも飾られていて、以前はよく会いに行ったものです。

解説書によると、ベビーパールが発売されたのは昭和九年で、オプター50ミリレンズの付いたものが定価二十五円。中学生の筆者が見たのはヘキサーというレンズがついたもので、もう少し値段の高いものでした。ところでカメラなる言葉は日本では写真機と訳され、「嘘いつわりのない本当のことを写す機械」という意味になっていますが、もともとの語源はどういう意味だったのでしょう。

モノの本によれば、カメラの先祖といわれるカメラオブスクラは、ラテン語で「暗い部屋」「暗い箱」を意味したそうです。だとすれば、直訳すれば、写真機より、あの「鳩が出ますよ」の「暗箱」の方が正しかったことになります。この訳語が定着していれば、いま頃はニコンーアンバコとかキヤノンーアンバコなどと呼ばれていたのでしょうか。モノの本を読み進んでゆくうちに、「暗い部屋に小さな穴から屋外の景色を壁に投影して鑑賞した」云々の記述に出会い、ハタと膝を打ちました。