2013年12月25日水曜日

マラルメと電子メディア

これらのなかで私がいちばんつよく惹かれたのは、改良型として、ヴェネチア中のすべての教会のありかが海市のなかに焦点的なスポットとしてトレースされていたものであるそのことやピッラネージの援用をはじめとして、このプランでは、質の高い多くの歴史的な知恵が、洋の東西を超えて大胆に採り入れられている。

ただ一人の設計者(主体)の手によるのではなく、複数の主体の参加という方式や、インターネットを通じての人びとの参加も、もちろん意味があるが、私がこのプランにいちばんつよく惹かれるところは、ヴァーチャルな空間が、歴史的・地理的なリアリティの厚昧と切り結んで呈示されていることである。

一九九八年三月に、息の長い作業の邦訳『マラルメ全集』の「言語・書物・最新流行」(渡辺・清水・与謝野他訳、筑摩書房)が刊行された。マラルメはいろいろと本について先駆的な考えを持っており、私の方はちょうど、「電子メディア時代のなかの書物」について考えてきていたところだったので、そこからいろいろと貴重なヒントを得ることができた。

電子メディア時代に活字文化、とくに書物がどうなるかは、現代文化の大きな問題である。のちに述べるように、あるいきさつから、現在それは、私にとって他人事ではなくなったが、かねがねこの問題をきちんと考えておきたいと思っていた。たしかに、その問題についての議論は、日本でも少しずつ起こってきている。しかし、このような場合、わが国では、どちらかというと、メッセージ(内容)よりもメディア(手段)の新しさへの関心が高いから、議論がどうしても拡散気味である。

海外ではどういう論議がなされているのだろうかと思い、調べようと思っていたら、さいわい丸善のPR誌『学鐙』の一九九八年四月号に早大助教授(ミュニケーション論・アメリカ丈学)の有馬折夫さんが「エレジーかルネサンスか」というエッセーを書いて、この問題をめぐるアメリカでの論争を紹介してくれていだ。論争とは、アメリカの文化評論家S・バーカーツとJ・H・マレー(MIT先端人文学所長)という二人の間のものである。

2013年11月6日水曜日

果敢な問いかけ

仏教の教え・理念に立脚したGNHという概念が、ブータンという仏教国レベルでいかに生きているか、機能しているかを適切に説明した言葉である。わたしが二〇〇四年七月に第四代国王に面謁した時、話題がGNHに及んだが、その時国王は「わたしが提唱したことになっているこの標語が、いろいろな方面から注目されはじめたのは嬉しいが、独り歩きしている感じもする」と述べられた。それは、マルクス主義の提唱者とされるカールーマルクス(一八一八-八三)が、自分の意見・主張が必ずしも正しく理解されずに、マルクス主義として世間に広まっていくことに対して、「わたしはマルクス主義者ではない」と語ったとされることに一脈通じるものがある。国王の述べられたことは、おおむね次の通りである。

国として、経済基盤は必須であり、ブータンも当然経済発展は心がけている。しかし仏教国としては、経済発展が究極目的でないことは、経済基盤が必須であることと同様、自明のことである。そこで仏教国の究極目的として掲げたもの、それが「国民総幸福」である。しかし今考えると、「幸福」というのは非常に主観的なもので、個人差がある。だからそれは、国の方針とはなりえない。私か意図したことは、むしろ「充足」である。それは、ある目的に向かって努力する時、そしてそれが達成された時に、誰もが感じることである。この充足感を持てることが、人間にとってもっとも大切なことである。私か目標としていることは、ブータン国民の一人一人が、ブータン人として生きることを誇りに思い、自分の人生に充足感を持つことである。

仏教国ブータンの国家元首としての、確たる「国民総充足」論である。門戸開放、そして計画経済の開始から半世紀ほどが経ち、その間のあまりの急速な近代化に、自分か押し流されそうになってしまったブータン。第四代澗王は、国民総生産さえ上がれば国は繁栄し国民は幸せになれる、と盲目的といっていいほどに世界中が躍起になっているGNPには、さしたる重要性を認めていない。GNPは、思っていたような全能の特効薬ではないと幻滅した、他の国のにがい経験を他山の石としたブータン人の直感的知恵であろう。いずれにせよ国王は、近代化をペースダウンし、ブータンの伝統文化と自然を保ちつつ、ブータンのアイデンティティを確立することを優先した。

これは、発展途上国の趨勢ではけっしてないどころか、時代に逆行した無謀な試みかもしれない。しかし、あまりの急激な近代化により自分の自分たる立脚点を見失い、決して幸福にはなっていない多くの国の先例を前に、同じ過ちは犯すまいという、果敢な政治決断であることは確かである。イギリスのレイチェスター大学は、GNH「国民総幸福」という観点から二〇〇六年に世界で最初の「世界幸福地図」を発表した。この社会・経済・心理学的調査は、一〇〇以上の研究に基づき、八万人以上に質問して人生の充足度を計ったものである。この地図によれば、一位がデンマーク、二位がスイス、三位がオーストリアとヨーロッパの先進国が並んだ後、ブータンが八位に入り、アジアで最も幸せな国にランキングされている(ブータン政府による二〇〇五年五月の人口調査の質問項目に、「あなたは今、幸せですか」という項目があったが、それに対する返事は、「非常に幸せ」が四五パーセント、「幸せ」が五二パーセント、「あまり幸せでない」が三パーセントであった。ちなみに日本は全一七八力国中ちょうど中はどの九〇位である。

「国民総幸福」であれ「国民総充足」であれ、これはけっして形而上学的な哲学でも、経済理論でもない。それは、日常生活を営む上での、平易な、それでいて深い叡智の裏づけのある心得である。フランス文学者の渡辺一夫(一九〇一-七五)は、ヒューマニズム(フランス語ではユマニスム、ドイツ語ではフマニスムス。ルネサンス期に生まれた言葉で、humanior「もっと人間らしい」に由来する)という言葉を、「どこの国でも、人間の名に値する人々、心ある人々ならば、当然心得ているはずのごく平凡な人間らしい心がまえ」と定義している(『私のヒューマニズム』講談社現代新書6、一九六四年)が、この意味でわたしは、GNHは「国民総幸福という名のヒューマニズム」であると思う。


2013年8月28日水曜日

沖縄の道路がいちばんきれい

さらに沖縄県へ直接支出されたものではないが、「思いやり予算」という世界でも例にない馬鹿げた出費がある。日本に駐留する米軍の苦労を思いやって駐留経費を負担しましょうというものだ。たとえば、〇四年の「思いやり予算」の内訳は、基地従業員の労務費一四三〇億円、基地施設の建設費七四九億円、電気やガスなどの水光熱費二五八億円、空母艦載機のNLP(夜間離着陸訓練)「移転」費四億円、などあわせて二四四一億円となっている。また、米軍基地に土地を提供している軍用地主約三万三〇〇〇人に、年間約八〇〇億円か地代として支払われている。これら米軍関係に支出された莫大なカネが沖縄経済に投下されているのである。小泉政権の三位一体改革で地方自治体が絞り上げられる一方で、沖縄には補助金が湯水のようにつぎ込まれた。

『琉球の「自治」』(藤原書店)によれば、沖縄の名目県民総所得の、実に約四割が国の補助金だという。これほど補助金漬けになった自治体は他に例がないだろう。言うまでもなく米軍基地があるからだ。米軍基地を受け入れているという痛みに対して、当然の報酬だという意見がある。私もその通りだと思う。貰えるものはどんどん貰えばいいし、むしろもっと貰ってもいいと私は思っている。しかし、これほど税金をつぎ込んだのに、いまだに県民所得が全国平均の七割で、完全失業率は日本一の七・四%(二〇〇八年平均)と全国平均四・〇%の倍近く、今も最貧県のままというのは、どう考えてもおかしい。「どこか間違っているんじゃないの?」と思うのは私だけではないだろう。

復帰以降、十数兆円の補助金が使われたということは、県民一人あたり1000万円ぐらいは受け取った計算になる。それなのに、どうしていまだに貧乏県のままなのだろう。理由の一つは、一部の人がカネを受け取って、それが下まで還流してこないびつな社会構造が考えられる。このことは後述するとして、やっぱりもらった金を公共工事で食いつぶしてしまい、新たな産業を創出しなかったことに大きな原因があるのだと思う。 私は公共工事を全否定するつもりはない。沖縄には必要だったと思っている。ただし、その内容が問題で、海岸を埋め立て、アスファルトをひき、コンクリートを流し込むといった単純作業を繰り返してきたことに問題があるのだ。

たとえば、亜熱帯の海と一体化したハイウェイ等、なぜ沖縄らしい都市計画にこだわらなかったのだろう。安っぽいコンクリートの建造物など、一〇〇年のスパンで考えたら、ただゴミを増やしているようなものだ。沖縄県と建設業者は、もはや運命共同体。〇七年の春から、私は、沖縄南部にある久高島に通っている。久高島が神の島と呼ばれるのは、琉球の祖神アマミキヨが初めて降り立った場所であり、沖縄に五穀をもたらした聖地であるからだ。もっとも、観光用パンフレットを開けば、そんなことはいくらでも書かれている。私の関心はそのことではなく、この島に不登校児など、全国から問題を抱えた小中学生がやってくるが、その多くが一、二年後に普通の子供として卒業していく奇跡である。

前置きが長くなってしまったが、那覇空港に着くと、私はいつもお願いしているタクシーに乗って安座真港に向かうが、那覇からほぼ直線状に最短距離で向かうので、沖縄の名門ゴルフ場と言われる「琉球ゴルフ倶楽部」の前を通っていく。ここは東京の大手芸能プロダクションが買収したゴルフ場とかで、本土から芸能人もよくやってくるそうだが、私はゴルフにはまったく興味がないので噂に聞くだけである。その前を通りながら、顔なじみの運転手はこう言った。「二〇年前と比べて、沖縄がよくなったことといえば道路だけですね。生活はちっともよくならないけど、道路だけはどんな田舎に行っても、きれいに舗装されています。全国でも、沖縄の道路はいちばんきれいじゃないですか」



2013年7月5日金曜日

NAFTAと雇用

強いていえば、NAFTAがなければ、現在メキシコからの工業製品輸入にかけられている四パーセントの平均関税率が据え置かれることになり、製造業では低賃金のわずかな雇用を一時的に維持できるかもしれない。しかし、NAFTA反対派がいちばん懸念している長期的なサービス化の流れをせき止めることはおろか、流れを緩めることすらできそうにない。しかし、悪い理論が良い理論を駆逐するのが政治の現実だ。NAFTA反対派が単純で受けのよい論法を使っているため、賛成派も程度の差はあれ、おなじような論法で応酬している。現在、政府内外のNAFTA推進派が掲げているバラ色の見通しによれば、数十万人の高賃金の雇用が創出され、アメリカの競争力は飛躍的に向上し、北米全体が繁栄するという。これは、反対派の見通しほど的外れではないものの、現実をかなり誇張していることはたしかである。

NAFTAが雇用にあたえる影響をめぐって、議論が沸騰している。反対派の主張として、メキシコからの輸入とメキシコへの資本流出により、アメリカで数十万人の雇用が失われるという意見もある。これに対し、賛成派の主張としては、NAFTAによってメキシコ経済が急成長することで、アメリカにとっては輸出市場が大幅に拡大し、数十万人の雇用が増加するという見方が多以。いずれも正しい見方ではないし、その中間が正しいわけでもない。貿易によって雇用がどれだけ増えるとか減るとかいった問題の立て方そのものが、アメリカ経済の仕組みを誤解している証拠である。とりわけ、NAFTAが雇用にどのような影響をあたえようとも、他の経済政策、とくに金融政策によってかならずそれが相殺される事実が見落とされている。

この点は知的水準の高い人にすら、なかなか理解してもらえない。まず、経済が複雑なシステムであること、そこではすべての要素が互いに影響しあっていることを指摘すると、全員が理解する。ところがつぎに、貿易政策の変更による影響を理解しようとすれば、金融当局がどのような対応をとるかを考慮しなくてはならないと指摘すると、とたんに不機嫌になる。しかし、この指摘は正しいのだ。そこで、今後一〇年間のアメリカ経済を、ボストンからニューヨークまでのドライブにたとえてみよう。一〇年間の雇用の平均水準を、この区間の車の平均スピードと考える。NAFTAが雇用にあたえる直接の影響(雇用がどのくらい増えるか減るか)を、車が高速道路を進むときに受ける風の影響(向かい風を受けるか追い風を受けるか)に置き換える。

この場合、NAFTAによる雇用全体への影響を予測することは、車のスピードに風がどのくらい影響するかを予測するのに相当する。実際に行われている雇用予測も、これとおなじことをしている。つまり、雇用以外の条件がまったく変化しないと想定しているのだ。これを車の例に当てはめてみると、風があるときも、風がないときとまったくおなじ量のガソリンがエンジンに供給されると想定するようなものだ。こんな方法で車の速度を予測できるとは、だれも思わないだろう。車を運転するのはドライバーだし、ドライバーはただ座っているだけではないのだ。アクセルでガソリンの流れを調節して、思いのままにスピードをコントロールする。

わたしは高速道路では時速約一〇〇手口(制限速度を超えている)で走ることが多い。理由は、いつも急いでいるからだが、それ以上スピードを出さないのは、警察の目につきたくないからだ。時速一〇キロ程度の向かい風や追い風では、車の平均速度は変わらない。アクセルの踏み込みを変えて、風の影響を相殺するだけだ。アメリカ経済にもドライバーがいる。連邦準備制度理事会(FRB)だ。FR13の公開市場委員会はほぼ六週間ごとに会議を開き、金利の目標圏を決定する。失業率に対する影響という点から見れば、この決定はどんな貿易政策よりも、はるかに大きな影響力をもっている。さらに、景気の状況に応じて決定が行われる。利上げか利下げかは、FRBが、
雇用拡大(目的地に急ぐこと)の必要性とインフレ(スピード違反のチケット)の懸念のどちらを重く見るかによって決まる。FRBが判断を誤った結果、予想以上にインフレ率が上がったり、雇用が減少したりする場合も少なくないが、いずれにせよFRBの行動は、アメリカの雇用の増減を左右する最大の要因である。





2013年3月30日土曜日

カメラとの出会い

リストラで明日の身も知れない時代に何で、といぶかるむきもあるでしょうが、松屋や他の中古市の売り上げの数字は、ここ数年、ほとんど変わっていないといいます。フランス人ダゲールによって銀板写真が発明されたのが、一八三九年。ダゲレオタイプと呼ばれたこのカメラは、F17の単玉レンズを使って八切判(16・5×21・6センチ)の銀板に写す四角い箱でした。露出は懐中時計とにらめっこ。人物写真の平均撮影時間は三十秒だったといいます。

いまから約百年前、パリの庶民の姿を驚くほど微細にカメラに納めつづけた写真家がいました。ユジェーヌーアジェ(一八五六?~一九二七)です。彼のカメラは、一八×二四センチのガラス原板を使った、ダゲレオタイプより一回り大きい組立てカメラでした。アジェはこのカメラを担いでI万枚におよぶ陰画を残しましたが、作品の真価が認められたのは彼の死後のことでした。カメラの重みのため、晩年にはすっかり腰が曲がっていたといいます。カメラが小型化されたのは一九二〇年代半ばになってからで、のちに小型カメラの代表的存在になったライカが初めて発売されたのが一九二五年(大正十四年)。発売当時の日本語版パンフレットには、次のようにあります(中川一夫「ライカの歴史」写真工業別冊/一九七九年)。

当時、ドイツは、第一次大戦以来の大不況に苦しんでいましたが、ライツ光学会社は何とか失業者を出すまいと、社運を賭けて機械技術部長オスカー・ハルナックが開発した小型カメラの発売に踏み切ったといいます。名称はライツ社のカメラということで、ライカと名づけられました。いまでこそ当たり前のように見える説明文ですが、当時は大変な驚きを与えた文章であったに違いありません。

わたしがカメラに興味を持った最初は、当時、高校生になったばかりの兄の友人が持っていたベスト判のスプリングカメラでした。開襟シャツの胸ポケットから取り出して見せてくれた白いハンカチに包まれたカメラの名はベビーパール。まるできれいな黒い目をした小鳥が、白い巣の中にいるようでした。現在も銀座などの中古カメラ専門店のウィンドーの中で見かけますが、ずっと欲しいと思っていながら、まだ手に入れてはいません。東京の英国大使館の近くにある日本カメラ博物館のガラスケースにも飾られていて、以前はよく会いに行ったものです。

解説書によると、ベビーパールが発売されたのは昭和九年で、オプター50ミリレンズの付いたものが定価二十五円。中学生の筆者が見たのはヘキサーというレンズがついたもので、もう少し値段の高いものでした。ところでカメラなる言葉は日本では写真機と訳され、「嘘いつわりのない本当のことを写す機械」という意味になっていますが、もともとの語源はどういう意味だったのでしょう。

モノの本によれば、カメラの先祖といわれるカメラオブスクラは、ラテン語で「暗い部屋」「暗い箱」を意味したそうです。だとすれば、直訳すれば、写真機より、あの「鳩が出ますよ」の「暗箱」の方が正しかったことになります。この訳語が定着していれば、いま頃はニコンーアンバコとかキヤノンーアンバコなどと呼ばれていたのでしょうか。モノの本を読み進んでゆくうちに、「暗い部屋に小さな穴から屋外の景色を壁に投影して鑑賞した」云々の記述に出会い、ハタと膝を打ちました。