2012年12月25日火曜日

助産の教科書に描かれたお産姿勢

こうして本格化し始めた産婆養成教育が、国の強力な後押しによって全国に急速に広がっていくのは、二〇世紀に入ってからで、一八八六(明治一九)年に三校、一八九六年に一六校、一九〇六年に五一校、明治末には一〇九校となり、大正期に入って設立されたものも、また多数ある。これらの養成所には、前に述べたような事情により、いきに訂い未婚の、しかもはじめてお産を学習する若い女性が集まることとなった。

こうして一九世紀末まで、いわば家族や隣人同士の互助的領域を出なかったお産は、二〇世紀に入ると、政府の熱心な産婆養成の後押しを受け始めた。それは、ただ西欧追随一辺倒のこれまでの政策から、日清日露両戦での勝利を通じて、自国の富国強兵政策を本格的に進め始めたことと強く関係している。それまでのように、素人で経験だけを頼りにした女性に助産を任せていては、「強い少国民」の再生産に危険であると判断し、なるべく早く初歩的な近代医学知識を身につけた新しい産婆を全国に配置しようと意図したのである。

一八九九年、国は「産婆規則」を制定し、それまで医制(一八七四年)によって、「産婆は四〇歳以上の女子で、平産一〇人難産二人の出産を扱ったもの」と定めていたのを、産婆試験に合格し、年齢二〇歳以上(第一条)と改めた。さらに、産婆試験は「一年以上産婆の学術を修業したるもの」に限定し、その後一九一〇年、一九一七年、一九三三年の改正によって、それぞれ内務大臣の指定した国内および朝鮮、台湾の、学校・講習所を卒業したものには、無試験で産婆資格を与えることとした。ここに日本の助産歴史上はじめて、体験からではなく教育機関で学んだ女性たちが、助産を担うこととなったのである。

さらに、この時、助産の教科書に描かれたお産姿勢が、仰臥位であったことは注目に値する。これまでの書物にあらわれた出産の図は、ほとんどすべて坐産であったのに、これ以後、新しい産婆に伝えられる出産姿勢は仰臥位となり、仰臥位が正統な出産姿勢として定着することとなった。だが、こうして養成された新しい産婆(新産婆、あるいは西洋産婆と呼ばれた)たちは、すぐさま世間の人々に受け入れられたわけではなかった。まず第一に、助産に限らず、当時専門家といわれる人々は、体験を規準として認識されていたからである。

例えば大工の棟梁は、自分で実際に木を切り、乾燥させ、家を建てる経験を、自分の棟梁について何度もみよう見まねで実体験し、それを何年も続けた後に自分らしい工夫も重ね、棟梁となった人ばかりであった。したがって、様々な木の持つ性質とか、耐久性、乾燥の適正度、また屋根の勾配の具合いなど、打てばひびくように脳裏にえがくことができた。実際にそのような人に建ててもらえば、長い間住みやすかった。

しかし、従来のとりあげ婆さんのような実体験を持たない若い新産婆たちには、体験が不足していた。助産のための学問を少しして、衛生知識や消毒方法を知ったからといって、急にその道の専門家として産婦から信頼を得ることなど、難しいのは当然であった。第二には、当時、まだお産は「自分が産むもの」と産婦自身に、あるいは周囲の人々に考えられていたことも大きな要因であろう。